Stand By Me 7早めに仕事を終わらせて、六時過ぎに家に帰ると、桜子はそわそわしながらあや女を待っていた。なにかを言いたそうにしながら、言えないでいる。あや女から先に、言ってやった。「先生の家、焼けちゃったんだってね」 その言葉に飛びつくように、桜子は身を乗り出した。 「里見、ここに住むことになるの?」 「あんた、自分が高校を卒業するまで、先生に迫らないって約束できる?」 「あや女にそんなこと、約束できない」 「じゃあ、父さんと一緒にシンガポールに行きな」 あや女は、わざと冷たく言い放った。 「あや女って汚い! 家を盾にして、人の恋路を邪魔するわけ?」 「そうよ。ここに住んでもらう以上は、あたしが保護者だもん。同じ屋根の下で、不純異性交遊なんて認められないね」 あや女は冷蔵庫をのぞいて、三人分の食材があるか確認した。 「本音を言えば、あんたを追い出して、先生と二人で気楽に過ごしたいぐらいなんだけど。あんたが約束してくれるなら、あたしもあんたが卒業して、あたしと対等の立場になるまで、先生にモーションかけないよ。それでどう?」 「……わかった。約束する」 桜子は、しぶしぶ承知した。承知するしかなかった。 あや女は、少し心が痛んだが、それも仕方ないと自分を納得させた。こうして桜子を牽制しておかないと、とても三人で平和に生活できるわけがない。 それに桜子の卒業までは、自分の態度を保留しつつ、里見のそばにいられる。恋愛に慣れていないあや女にとって、それはありがたいことだった。 ちょっと卑怯だと思いつつ、今はもう独りじゃないことが素直にうれしかった。 約束通り七時過ぎに、里見はやってきた。桜子がいることに驚いていたが、今更他に行くところもなかった。 話し合いの末、家賃を取ることにして、里見はずっと部屋を借りることになった。焼け出されて無一文に近い里見は、あや女の提示する家賃より安上がりの住まいを見つけることができなかったのだ。 学校にはどう説明してあるのか、あや女は知らない。生徒と同じ家に住んでいるのがばれたら、かなりまずいと思うのだが、里見の場合、あまり気にした様子もなかった。もっとも、桜子のほうが、あや女のマンションに引っ越したことを学校に伝えていないのかもしれない。 父と桜子の母が、一度話し合いのために訪ねてきた。父は、かつてのマイホームで居心地が悪そうだった。離婚以来、ここにくるのは初めてなのだった。 桜子の母は、娘の気持ちをよく理解していて、不満気だった父を逆に説得してくれた。父はかなりがっかりした様子だったが、美人の娘を手元に置けないのが寂しいのだろうと推測していたあや女は、まったく同情しなかった。 日曜日、あや女は脚立の上で背伸びして、ベランダのカーテンをはずそうとしていた。今までの無難なベージュのカーテンをはずして、明るい空色のにかけかえるのだ。 ふと思いついて、朝食の支度をしている里見に、前々から不思議に思っていたことを訊いてみた。 「学校の先生って、住むところにも困るほど給料安いわけ?」 里見は一瞬言葉に詰まったが、照れ笑いしながら言った。 「給料は、まあ普通の公務員なんだけど、車のローンと駐車場代が……」 「車? なに乗ってんの?」 「レンジローバー」 「レンジローバー? アパート代にも困ってるのに、そんな車に乗ってるの!」 「前まではルームメイトと家賃折半だったから。大丈夫だと思って、つい無理なローン組んじゃったんだよな。あと、奨学金の返済とかもあるし」 「それにしても贅沢な。あたしだってローバーミニ欲しかったけど、家計を考えて軽で我慢してるのに」 こんな金銭感覚がアバウトな奴が数学教師なんて、世も末だ。 「あたし、あんたの生徒じゃなくて良かったよ」 「俺と恋もできるし?」 「バカ言ってんじゃ……」 背伸びしていたあや女のバランスが崩れ、脚立の上でよろけそうになった。 いつの間にか後ろに来ていた里見が、あや女の腰を抱きかかえ、そっと床に下ろした。 「俺がやるよ。せっかく男手があるんだから、遠慮しないで使え」 「……うん」 赤くなった顔を見られたくなくて、あや女はうつむいた。里見はさっさと脚立に上がると、カーテンクリップをはずしていく。 「あや女って、意外と重いのな」 「わ、悪かったわね!」 里見は脚立の上から、ニヤニヤとあや女を見下ろしている。 「日頃お世話になってるお礼に、今日はドライブ連れてってやるよ。ここはやっておくから、桜子起こしてこいよ」 言われるまま、あや女は桜子の部屋に向かった。桜子は朝が苦手で、二・三度揺すり起こしてようやく物憂そうに目を開けた。 「……なによ、日曜じゃん。寝かせておいてよ」 「先生が、ドライブ連れて行ってくれるってさ。あたしと先生の二人で行ってもいいんなら、寝てていいけど」 そう言うと、桜子はしぶしぶ起き上がった。眠そうに目をこすると、きょとんとした顔であや女を見た。 「あや女、顔赤いよ」 「……うん」 腰の辺りに、里見の腕の感触が、まだ残っている。あの腕が、欲しくてたまらない。 「早く仕度しておいでね」 そう言うと、あや女は桜子の部屋を出た。 きっと、桜子もそうだろう。まだ、自分の気持ちに素直にはなれない。 里見のレンジローバーは、小樽の海岸へ向かって走った。 出発するとき、どちらが助手席に座るかでちょっともめたが、行きが桜子、帰りがあや女ということでお互い妥協した。 里見と桜子が楽しそうにしゃべっているのを聞きながら、あや女は後ろの席でぼんやりと窓の外を眺めていた。 つけっ放しのカーラジオから、あや女の好きなオールディズの曲が流れてきた。ベン・E・キングの「Stand By Me」。 ボリュームを上げて、と言おうとして、あや女は言葉を飲み込んだ。 わかった。あの夜、月明りに照らされた里見の表情が寂しげだった訳が。 リバー・フェニックスは早死にした。幸弘と同じに。 少年たちのひと夏の冒険を描いた、あの切ない郷愁にみちた映画は、里見と幸弘にとって思い出の映画であったのかもしれない。 里見は、曲には気づいていないのか、桜子とおしゃべりを続けている。それでいいと、あや女は思った。里見に、この曲を真面目に聞いてもらいたくはない。今は、まだ。 「きゃー、まだ水しゃっこいよー!」 海に着いて、早速桜子は裸足になり、波打ち際で水と戯れている。 空は雲ひとつない快晴で、桜子と同じように水辺で遊んでいる家族連れや、ウエットスーツを着てボードを練習している若い男が、ぽつぽつといる。 「ガキ」 口ではそう言いつつ、無邪気な桜子をきれいだと、あや女は心から思った。 「里見―、こっちおいでよ!」 「ほれ、先生、呼んでるよ」 里見は桜子に手を振って見せたあと、あや女に向かって言った 「前から言おうと思ってたんだけど、俺のこと先生って呼ぶのやめろよ。俺はあや女の先生じゃないんだから」 「じゃあ、なんて呼べばいいのさ」 「里見でかまわねーよ。ヘンな姉妹だよな、おまえら。教え子の桜子は俺のこと呼び捨てだし、関係ないおまえは先生としか呼ばないし」 桜子が、もう一度里見を呼んだ。 「さ、行くぞ」 口答えする間もなく、里見はあや女の右手を握って歩き出した。 里見の手のぬくもりを感じつつ、あや女は思う。 きっと、いつかは素直に言おう。「そばにいて」。 |